回想
今年も、9月22日の命日が来るたびに故坂井三郎さんの事を思いだす。
坂井さんの著書、中でも「大空のサムライ」は、中学2年の時に初めて読んで
以来、一連の著書と共に今でもおりに触れて読んでいる愛読書だ。
戦争の是非はともあれ、戦記文学ほど戦争と言う現実の厳しさを通して、人間
の有り様を強烈に描いているものはない。
坂井三郎氏は、昭和十三年の支那事変参戦以来常に最前線で戦い、
昭和十六年九月後に、最強の日本海軍戦闘機隊と言われた台南航空隊に
開隊以来の先任搭乗員として参加し、日本海軍航空隊有数のエースとして
、撃墜数六十四機を記録する撃墜王だ。
戦闘中四度の負傷し、中でも昭和十七年八月、ガダルカナルでの負傷時には
頭部に機銃弾を受け、左半身麻痺と右目の失明と言う状態に成りながら、四時
間の飛行の後、ラバウルにある基地に奇跡の生還をはたした。また昭和十九
年七月には、神風特攻隊で有名な敷島隊(大戦果を挙げて有名になった特攻隊
)の三ヵ月まえに硫黄島の基地より特攻攻撃に出撃し、九死に一生を得て帰還。
さらに特筆すべきことは、自分の小隊の列機(部下)を一人も死なせなかった。
これはあの当時の戦争の状況を考えると、奇跡としか言い様のない事だ。
坂井氏とお会いするまで、自分は旧日本海軍の職業軍人の前歴を持つ
人達と話した経験がなく、戦前の旧軍人の人としての雰囲気は戦記を通して
想像するのみで、特に旧日本海軍戦闘機隊の隊員であった人達は激戦につぐ
激戦と、戦争後期の無謀な神風特攻によってほとんどの人が戦死し、さらに戦後
六十年たった今では御健在な方がいなく、戦前からの職業軍人と言われる人に
至っては、皆無と言って言いくらいにいない。当時、数少ない生き残りとして謹厳
実直、戦死者に成りかわって、戦争の実態を精確に旧日本海軍の職業軍人当事
者として語っていた。記憶の精密さ、こちらの質問の趣旨に沿って展開する論理
の的確さ、話題を問はない洞察力を持ち、下士官から叩き上げの特務士官とは
こんな凄い人たちだったのかと驚いたものだった。
2000年の逝去一カ月ほど前自分と最後に交わした会話も、「今年の終戦記
念日は、外人記者クラブで大東亜戦争について問題発言するぞ。」と、意気軒昂
であった。
そんな氏の言葉は、生死を達観した者のみが持つ不思議な明るさと重みを持っ
ていた。
坂井氏と話していると色々と勉強になったが、中でも面白いと思ったのは日
本のオリンピック不信の話しで、「なんで今の若い選手は、期待されるということ
がプレッシャーになるのか?」「普通はこんな自分が、こんなにたくさんの人に期
待してもらう事に感激して、死んでもいい気持になれば、プレシャーが自分に運
と力を呼び込むのに」と。
そういえば昔、誉と言う言葉があった。
最後に坂井さんから聞いた話しを一つ、ある時、旧海軍のゼロ戦搭乗員の
生き残りで構成する、「ゼロ戦搭乗員会」に出席した時の在りし日の坂井さんと
昔の部下の会話。
「分隊士、お別れに参りました!」
「どうしたんだ?」
「この度、医者よりガンを宣告されました!」
「そうか、貴様もついにお迎えが来たか、じゃ、来年はもう会うことも無いな。」
「そう思ってお別れを言いに参りました!」
「来年は忙しいのでお前の葬式には、いけないなぁ、だから香典は今やるよ」
「さすが分隊士! じゃ、財布ごと全部頂きます!」
「財布は勘弁してくれよ。」
「分かりました、じゃ、香典だけ、ありがとうございます!」
ここまで話した後、坂井さんはニヤリとした。
「どうしたんですか?」と自分が尋ねると。
「そいつ…..。三年たった今も、まだ生きているんだよ。」と真剣な顔をしていった。
「冗談だったんですか?」と、自分が尋ねると、坂井さんは遠くを見つめながら、
「なぁに、あの戦争でも死ななかった奴だから、癌ぐらいでは簡単にはやられんさ。」
と言って、子供みたいな顔になって、笑った。
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